もう「国語」と「日本語」を分けて考えよう

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日本語は、日本人だけのものじゃない。

ひとつの「第二外国語」として、世界ですでに400万人弱の学習者がいて、影響力のある言語としても世界第8位にランクされています (2016年、World Economic Forum https://www.weforum.org/agenda/2016/12/these-are-the-most-powerful-languages-in-the-world/) 。

サブカルチャーや増える観光客の影響もさることながら、やっぱりまだまだ大きい経済規模(働けるチャンスがある)と民主主義社会に引き寄せられて学ぶひとたちが主流と思われます(特にアジアは)。

そして、今、弊害になっていると思われるのが、われわれ日本人のマインド。例えば、

・日本語は日本人固有のもの (国語)

・日本語は日本人(ネイティブスピーカー)が教えなければならない

・外国人も日本人のように話せるようにならなければならない

という固定観念です。

世界に6000余りある言語の中で8位にランクされて、【実質】世界第二位のGDPを持つ経済大国で、アジアでかつ非白人の国で唯一G8のメンバーである日本の言葉が未だに「国語」を前提として考えられているのです。

もう、ちゃんと分けるときだと思います。「国語」と「日本語」を。

日本語が日本人の手を離れて(親離れして)、外国語として世界各国の現地で自立して学ばれるようになったとき、本物の国際語として自分の足で立って育っていくと思います。

海外で日本語学習のサポートをしている立場で日本に目を向けると、まだまだ固い教育界がいまだに幅を利かせていて、とてもじゃないですが、国際語として羽ばたいていくには程遠いと感じます。学校、学会、国語、教師、の延長線上にあるんですね、日本語はまだ。

おまけに日本人特有の几帳面さ・潔癖さがさらにブレーキをかけていて、教師にも学習者にも日本語を学ぶこと・教えることを「とっつきにくいもの」にしてしまってます。

日本人講師に対しても、検定資格の保持だとか、院卒の学歴だとか、経験年数だとか、常勤か非常勤かとか、文化庁にいたっては420時間養成講座を「国内」の指定校でとったかとらないだとか、しょうもないことで講師を差別し消耗させてしまっています・・・。

ですから、ぼくは、日本語を再定義するところから始めようと思ってます。

・日本語は日本人固有のもの ⇒ NO。誰もが学べる言語として切り離す

・日本語は日本人が教えなければならない ⇒ NO。日本語を外国語として習得した外国人こそ主体的に教えるべき。

・外国人も日本人のように話せるようにならなければならない ⇒ NO。コミュニケーションの道具として共有できればよい。アクセントもそのままでいい。漢字も別に全部読めなくていい。

非ネイティブ講師が同じ母語を共有する学習者に教えるようになれば、言語としての親離れ・自立に拍車がかかりますし、わざわざ高額の借金をして日本に勉強しに行く必要もありません。

間接法なので何より効率的ですし、非ネイティブ講師の仕事の機会も作れます ⇒ 日本語を学んだことへのさらなる価値にもつながります。

「日本語は日本人講師じゃなきゃ、、、」という幻想が崩れて、硬直した日本語教育界の不毛な家元制度的な講師の序列も意味がなくなってくるのではないでしょうか。

インド人もフィリピン人も第二言語として英語を話しますが、決して学校で「アメリカの国語」を勉強しているわけではない。ましてやインドやフィリピンの英語教師が全員イギリス人やアメリカ人のわけでもない。

日本語が第二国際語になるために、これから全く新しいやり方で仕事に取り組んでいく。日々いろいろなことを試していく。楽しくてしょうがない。じゃ、またーー。

2件のコメント

  1. おじゃまします。
    私は今ハノイで日本語を教えています。
    ベトナム人学生の気質を考えると、
    あまり前面に出ない方がいいのかなと思っています。
    細かいところはベトナム人講師が教えるのがいいので、
    私は「植木屋さん」のように、剪定するのが役目と感じています。

  2. どうも、Nunoです。コメントありがとうございます。同感です。特に初級は母語での間接法に勝るものはないと思います!

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