考えることを途中でやめてしまうフィリピン人学習者の「根っこ」にあるもの

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約4か月前、ひらがな・カタカナから始めた、いわゆるゼロ初級クラス。担任ということもあって、新たな授業の試みを数々入れつつ、セーフティネットも施して、今現在でき得る自分の理想の進め方をしてみました。生徒の出来栄えからすると、そこそこアウトプット力の高いクラスになっていると思います。

そんな中で、ただ一人、4か月間ずっと低迷を続けているJさん。やっぱり担任として勿論見過ごすわけにはいかず、あの手この手を試みるも、なかなかいいパフォーマンスが発揮されないまま、いたずらにカリキュラムだけが進んでいくという日々。

ペアワークやグループワークで、またテスト採点後のレビューで、意図的に「できる学習者」をJさんと組ませて、母語によるピアティーチングの効果も粘り強く期待してみましたが、結果的には多少の改善程度に終わり、やはりJさん一人だけが今もクラスで遅れたままとなってしまっています。

そこで、昨日、意を決して、自分が出した全てのペアワークタスクで講師のぼくが自らJさんと組んで深くJさんの学び方を知ろうと試みました。

■ ペアワークで見られた<考えない>という光景

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案の定、そこからは、できる学習者(参考エントリー:  できる生徒はいつも考えながら勉強している)とは正反対の様相がはっきり見えました。

4か月間担任で気心知れているとはいえ、やはりそこはネイティブ講師と1:1のペアワークということで、最初、十分に心理的アイスブレークをさせた後、練習を開始。直前にレビューした文型を使ってのベーシックな文メイクです。

そして、すぐにつまづきが見られました。ぼくも一呼吸おいて、笑顔で優しくヒント(助け舟)を出します。

普通の学習者なら、ここでぐるっと頭の中で考え、<あっ、分かった(かも)!>というような顔をして、自分なりの答えを発します。それが勉強の楽しみの一つであるかのように。

でも、Jさんは、そのわずか短時間の【ぐるっと考えてみる】ことをしないで、別のペアのクラスメートに母語で何か確認します。そしてその結果をオウム返しのようにぼくに向かって言うのです。

答えにつまづくとき、常にこのような動作が繰り返されました。

■ 考えることをやめてしまう習性

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そう、自分で深く考えてみることをすぐに途中でやめてしまうのです。まるで、脳の浅い部分に弁があって、深く考えようとする意志を全てその弁がはじいてしまって深く入らせない、とでもいうような。

脳の表面をスケーティングしている感じなので、せっかくの学習体験が、奥深く貯蔵されないのです。

一番愕然としたのは、そのペアワークを始める前にわざわざ学習者の耳目を集めて、図解で超分かりやすく説明した事柄を<全く覚えていなかった>ことです。しかも、Jさんはそれをノートにとっていました。いや、ただ幽体離脱した抜け殻の目と手を使ってただ機械的に書き写しただけなのかもしれません。

これを小学校からずっと続けてきたのだとしたら、何かを新しく身につけることはかなり難しいのではと思いました。

いくら、ロジカルに説明したとしても、脳内に理解のフレームワークが準備されていないのです。これは相当手ごわいです。

そして実はこういう雰囲気の学習者がJさんだけじゃないのです。他のクラスの学習者にも存在することを知っています。さらにこの傾向は、セブの日常生活で会う店員さんなどにも時折見られる傾向です。

■ 小学校入学時から強制的に使われ始める「英語の功罪」なのでは?

この原因として、ぼくが今、仮説として挙げているのが、フィリピン人にとっての「英語」です。

ちょっと想像しただけでも、フィリピンの子供たちは大変な負担を強いられているなと感じるわけですが、何しろ6歳、小学校1年から算数や理科などの科目については、母語でもなく公用語でもない「英語」で書かれたものを使っているのです。

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これは、学校のフィリピン人の先生やスタッフ、また、オンライン英会話で話したフィリピン人講師たちも口を揃えて言っていたことです。

「小学校低学年から外国語で書かれた教科書を使うわけだから、勉強が、もう2倍も、3倍も大変なんですよ。しかもその負担分、スケジュールが緩やかになっているわけでもない。英語が得意な生徒でなんとかついていけるという感じだから、ほんとみんな苦労したはず。」

実際、2013年~2014年あたりからは、タガログ語やビサヤ語で書かれた教科書がようやく使われ始めたということですが、今現在の学習者(生産年齢人口にあたるフィリピン人)は、この「英語の教科書で」勉強した世代です。

もし仮に日本の小学校1年生や2年生が、初めて算数や理科など本格的な勉強をしていく際に、教科書が外国語で書かれていたら、どうなるでしょうか。しかもその言語的ハンデの分が考慮されないスケジュールで普通に授業や実験やテストが行われるとしたら・・・。

好奇心・探求心が一番強いときに、言語と学ぶ制限時間に大きな壁があるとしたら、子供ながら、深く考えることをあきらめてしまうのではないでしょうか。

そして標準化されたカリキュラムとテスト、評価制度の中で、生徒たちはいい点数を取るためにただ正解を知ることだけに興味を持つようになるのではないでしょうか。

「なぜ?」より「(答えは)何?」という習慣。

6歳からのイマージョン教育で、確かに言語ツールとして英語が広く使えるようになった反面、もしここに<深く考えることをあきらめてしまう>習慣の原因があるのだとしたら、失ったものも計り知れないほど大きい・・・。もちろん、仮説の域を出ませんが。

ぼくのこれからの課題のひとつは、言語習得能力に恵まれない、かつ論理的思考(算数)が得意でない学習者をいかにストレスなくコーチングしていけるか、です。

ちゃんと外部的動機付け(=日本語を学んで、日系企業で働きたい)を持って、日本語学校へ来ているわけなので、あとはどうやって内部的動機付け(=日本語を学ぶこと自体が楽しい)をどうやって持ってもらえるのか。

学びの正攻法が通じないのであれば、全く異なるガイドの仕方で<知らず知らずのうちに深く考えさせられていた>という状況を授業で作り出す以外にありません。

でもこのチャレンジこそが新しい時代の教師として最大の達成感をもたらすと思いますし、ここをうまく仕組化できれば、多くの【勉強で深く思考を潜らせることの苦手な】フィリピン人学習者を、学ぶ楽しさの体験へと導いていける可能性が大いに高まるのです。

じゃ、またーー。

 

 

 

 

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