第二言語習得における大きな転換点 - 「文法を教えない授業」をとことんやりきってみたい

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昨晩の #日本語教師チャット は、すごくためになる有益なコミュニケーションでした。テーマは「第二言語習得」。世界各国からいろいろな日本語教師の方々が参加されて、活発なタイムラインになったと思います。Togetterのまとめが上がったら、またじっくり読んでみようと思います。

第二言語習得、まさに日本語学習はこれそのものなのですが、日本語教師の養成講座のときからずっと違和感を感じていたのが、文法&文型中心の教育スタイルであることでした。

このやり方に対して、デジャブを強く感じました。そう、中学校のときの英語の時間。SVOやSVOC、現在形、過去形、過去分詞、不定詞、関係代名詞・・・ 【形式】から入って、先生のあとに続いてとにかくその文を何度も復唱させられ、前置詞の穴埋めドリルや和訳練習などを続けていきます。

そして、みんなどうだったでしょうか。

3年間、そう、3年間、「学校」で勉強したにも関わらず、実際ネイティブスピーカーが話す英語はさっぱり聞き取れないし、勿論しゃべれない。3年間と言えば相当な期間ですし、その後の高校も加えれば6年間です・・・。

恐らく高校入試がある関係で、このスタイルを崩せないまま、ずるずると来たのでしょう。問題意識のある先生自身がおかしいと気づいたとしても、社会全体の大枠の仕組みからどうすることもできなかったのかもしれません。

この日本人らしい【形式】から入っていく形、何年やっても結局しゃべれない、というリアルな現実に対して、日本語の授業をしながらいつもデジャブを感じ、モヤモヤしていたのです。

■ テストで測る、痛々しいまでの「正確さ重視」が学習者を委縮させる

去年の夏、セブに来てから、コミュニケーション重視を中心に据えて、文法解説書(英語版)も事前に生徒に提供して「なるべく文法を説明する時間をとらないような」授業をしたつもりでしたが、それでも自分の担任のクラスでは、全員が思っていたとおりのパフォーマンスを出したわけでもありませんでした。

やっぱり何名かは日本語を口に出すのを恥ずかしかるような様子・・・つまり間違うのを恥ずかしかるような雰囲気・・・。

授業ではいつも「間違うことが勉強なんだから、とにかく心配しないでたくさん間違ってくださいね。」と口では言っていたものの、どうしてもそこをブレイクスルーできない生徒がいました。

自分の授業のやり方について、自分なりに多角的にリフレクションを行い、考えた結果、この根本的な原因は、やはり「文型シラバスの教科書(みんなの日本語)」をベースに「課毎のテスト(文法・語彙)」を実施していたことに尽きると確信しました。

なんだかんだ言って、<そのテストの成績をベースに生徒を評価していた>ことだと。

いくら口でいろいろ言っても、結局テスト結果で評価されるんだったら、そしてそのテストが正しい助詞や正しい時制などの「正確さ重視」を見るものだったら、当然、生徒の関心はそこに向かってしまうのです。

本当にこわいですね。自分自身、講師としてデジャブ的な違和感を感じて、<違うやり方で、違うやり方で>、と意識していても、知らず知らずのうちに<学校が指定した教科書、求める評価=テスト結果> という従来型の標準化の波に生徒を飲み込んでいたのでした。

英語教師のための第二言語習得論入門/ 白井 恭弘」に、こう書いてあります。

(日本の英語教育で用いられている)自動化モデルの弊害は(略)最初から正しさを学習者に強要することです。そのため、学習者は正しさばかりに注意が行き、コミュニケーションへの意欲をそがれてしまいます。

自分ではたくさん間違ってもいいよ、と口ではいいながら、テストで正しさの評価を重要視していたという自己矛盾。本当に反省するばかりです。

テストは学校指定の成績記録としてやらないわけにはいきません。でも、今まで通りのやり方から大きく舵をきって、全く新しい「第二言語習得理論の実践」をしない限り、「<正確さ>ばかり気にして結局しゃべれない」生徒を大量生産してしまう恐れがあります。

ということで、2週間前から始まった新しい初級クラスから、2つのことを肝に銘じ、大幅に授業のストラクチャーを変えました。

  1. テスト=単なる文法チェックのクイズ、と定義。成績は記録するだけ。受講実績&リフレクションで評価する。他の評価制度をとりいれる。
  2. 文法を解説しない(文型積み上げをしない)!!

まず、1.ですね。生徒に対して「テストはただの文法チェックだから気にしなくていいよ。それよりも、授業中に間違いを恐れることなく勇気をもってTRYしたこと、読めた・書けた・ペアワークのタスク実際やった、というそれぞれの<達成したこと>に対して評価をしていくからね!」と説明しました。

心理学的にも、ストレスがない状態の方が記憶がよく定着すると言われています。間違うことでモチベーションを下げてほしくないし、テストの「結果」は気にしなくていいという認識を共有することで【正確性への恐れ】みたいなものの排除を試みています。

■ 文法を教えない授業で、効果を実証したい

そして文法(+文型)です。ここが、これからの第二言語習得の肝であると思いますし、ちゃんと結果を出せれば転換点になるとも思っています。

つまり、授業で敢えて文法を教えないということです。

多くの教科書、多くの講師や教務の方々、多くの養成講座などが、文型シラバスで導入⇒練習・活用によって自動化、という、いわば脈々と続いてきた(あるいは信じられてきた)既成概念に【NO】を突きつけてみます。

従来型の授業をしてきた先生方からしてみれば、このやり方は異端であり、パンク野郎のように映るかもしれません。

“文法を教えなくて、どうやって話せるようになるっていうんですか!??”ときついツッコミが聞こえてきます(・・想定内ですが)。

でも、実際、日本人はそのやり方で英語を何年も何年も学んでも一向に流暢になりません。また、実際、JLPT N2やN1をとっても、日本人とコミュニケーションできない人も存在します。

今まで、まだたった2週間ですが、ぼく自身、全く文法の説明はせずに(ぐっとこらえて)、初級の授業を進めています。今のところ何ら問題はありませんし、生徒たちも積極的に日本語という新しい言葉に食いついて、恐れずにどんどん口に出しているという印象を受けています。

実は、ある事情があって1時間だけフィリピン人の先生に代講をお願いしたときに、「いつものように、XX課の文法の説明をお願いできますか」と頼んで実際やってもらいました。そのあと、教室に入っていったときの生徒たちの顔は今までとまるで違いました。

下を向いて教科書を凝視し、難しそうな顔をして必死に何かを辿ろうとしているようでした。そして最も重要な示唆= プレッシャー を感じているようでした。

文法を説明してもらう ⇒ 文法を理解しようとする ⇒ その文法を使った例文を読んで内容を理解しようとする ⇒ 本当に理解できたかどうか、他の例文も理解できるかどうか不安、という【いままでの状態】にたった1時間で逆戻りしてしまったのです。

日本語教師のためのCEFR/ 奥村美菜子・櫻井直子・鈴木裕子」には、はっきりこう書いてあります。

教師の役割は文型やモデルを教えることではなく、学習者たちが自由自在に学習活動ができるように学習計画を支援し、導く、モデレーターとなることだといえるでしょう。

また、先の白井恭弘氏も「英語教師のための第二言語習得論入門」の中で、入試に関して触れて、こう書かれています。

和訳の問題はできれば避ける。文法問題も減らす。文法などわからなくても、Listening、Reading、Speaking、Writingができれば、それで十分なのです。

白井恭弘氏は、UCLAの言語テストで、自分や台湾人留学生のほうがネイティブのアメリカ人よりも英語言語テストの成績が良かったが、英語力はもちろんネイティブよりも低かった、という体験談を挙げています。

つまり、第二言語習得に関しては、最初から文法=【形式】に固執すればするほど、流暢には成るのは難しい、ということがくっきりと浮かび上がってきました。言語を操る能力は文法の知識ではないのだと。

今週も引き続き、今までとは真逆で、異端の、<文法を解説せずに、行動中心のアプローチ>を続けてみようと思います。

文型を導入して、さあその文型を使ってみましょうというのがあるべき授業じゃないということをちゃんと証明したい。

もしいい結果が得られて、自分自身も授業の実践から方法論が分かれば大きな収穫となり、まさに「転換点」になると思います。さあ明日から、本当に楽しみです。インプット多め、場面ありきの会話と行動中心のアプローチ。そして文法は説明しない。腕が鳴ります。

じゃ、またーー。

 

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