どうも、Nunoです。今日は日本語教育業界の「世代交代」について少し書いてみたいと思います。
携わる職種や業界によって(または今なら、生き方によって)その感じる色の濃さは異なってくると思いますが、少なからずの方が、今=『時代の潮目にいる』と感じているのではないでしょうか。
働き方、消費に対する考え方、住み方、モノの所有の仕方、結婚観、そしてもちろん根本の生き方そのものまでどんどん新しい価値観が生まれてきていると思います。そしてそれは、今までの常識がまるでオセロのように覆されつつあるということでもあります。
ぼくは評論家じゃないので、あくまでも自分の主観に基づいた意見なのですが、この価値観の変化には3つの大きな要因があると思っています。
- 消費と保有を超えた「新しい幸福感」を求めるムーヴメント
- 情報がボーダーレス⇒ 自国・所属地域だけの価値観がアップデート
- 手元にある最先端のテクノロジー
特に日本は《民族・文化・歴史・言語を共有する「日本人」だけで、日本国内で経済を回し、生き方を共有してきた》時代から、上記3つの価値観を自然に内包した次の世代が世に出てきて情報発信し始めたことで、もうひとつのNipponが立ち上がってきたような感じさえ受けます。
もうひとつのNipponは、旧来の日本という大きなアンブレラの下にいない世代。ゆるやかにつながったコミュニティネットワークの集合体みたいな。日本はある意味、【意識の上では】既にパラレルワールドに近いかもしれません。
「世代間ギャップ」でパラレルワールド化
Twitterのタイムラインを見ていると、時折、日本語教師の方々からの不満や愚痴などがツイートされていることがあります。特に働き方や職場の常識について、教務主任や経営者などと価値観が合わない。
またもうひとつの側面、使う教科書や授業の進め方について。コミュニケーション能力強化の面から、従来の「文型積み上げ式」⇒「行動中心アプローチ」へと注目は集まっているものの、それを実際に実行している日本語教師や日本語学校はまだまだ主流ではありません。
なぜなのか。双方ともやはり【意識の上での】パラレルワールド化に起因しているのではないかと思うわけです。もう無視できないほどの世界観・価値観ギャップ。
その溝のこっち側と向こう側で、プロトコルが合わなくなってきている感じです。ITしかり、教科書しかり、そしてJLPTしかり(参考記事: JLPT - この試験で測る「日本語能力」とは何だろう?)、むしろ合理的で効率的なやり方に変えていきましょうよという意識が、なかなか経営サイドのあっち側に響かない。こっち側にいる人たちの主流が、まだ経験の浅い若手なだけに、その新鮮で合理的な意識の持ちようも、昔ながらの「非合理に見える形」でブレーキをかけられてしまっているような感じです。
実際ぼく自身、ツイートを始めたのもこのブログを書き始めたのも、日々感じたあらゆる違和感からきています。会社員からの転身日本語教師として仕事を始めてみて(現在2年2か月: 2018年7月21日時点)、日本語教育のいろいろな「常識」に違和感を感じて、それを疑い、自分が「真」と思えることを実際試していることの記録です。
改めて見返してみると、まだ数十記事の中でも、その類の記述が多くありますね・・。意識上のパラレルワールドの向こう側にいる先生たちからすれば、「パンク」に見えるかもしれませんが・・。
<参考記事>
・ソボクな疑問: 細かい教案って、ほんとに必要なのでしょうか。
・板書しない授業も、アリじゃないですか。
・教師も授業で失敗していいんです!
・いっそのこと、日本語学校に仮眠スペース作ったらどうだろう?
・ 「文法を教えない授業」をとことんやりきってみたい
あちら側の世界からすると、業界の価値観を変えられることは大迷惑?
ビートルズもレコード会社のオーディションに落ちましたし、矢沢永吉さんもキャロルのデビュー前、何度もレコード会社に断られたといいます。既存の業界ベテランの方々の見る目とは一体何なのでしょうか。
ハリーポッターの出版を断られまくった、J.K.ローリング氏の本が出版OKになった際に、こんなエピソードがあります。
部下から「ハリーポッターと賢者の石」の原稿(かなり分厚い)を家に持ち帰ったブルームズベリー社の社長は、なかなかそれを読む気にはなれませんでした。すると8歳になる娘が勝手に読んで、「パパ、これはどんな本よりもおもしろいよ」と感想を述べてきたのです。・・・こうして、8歳の娘が喜ぶのなら間違いないと思った社長は、ローリング氏との契約を決心したのです。
上記挿絵の《ベテランよりも「新人」のほうが本質を見抜く力がある》というのは言い得て妙だと思います。凝り固まった既成概念、いつまでも縛らがちな成功体験、などがなく、曇りのない目で何事も見れる新世代は、業界をよくしていくために不可欠な存在です。
また、「ミライの授業」著者の瀧本哲史氏は、14歳の中学生に向けて、こうも書かれています。
大人たちが応援するのは、自分の地位を脅かさない若者だけ。つまり、「世界を変えない若者」だけです。大人たちからすれば、みなさんの手で世界を変えられることは、大迷惑なのです。
日本語教育業界を見渡したとき、知識・経験・情報量の差でマウンティングしてくるベテラン教師がやはり存在していて、ちょっとデジャブを感じてしまいました。
つまり、新人日本語教師の方々が感じる素朴な違和感、そして合理的にやろうとするアイデアや、ITを使ってやろうとすることなど、ことごとくつぶされてしまうのも、これまでの常識を覆してほしくない世代の方々が業界内に鎮座し続けているからかもしれません。
ですから、パラレルワールドのこちら側にいる世代の講師の方々が主流になったとき = 世代交代で、日本語教育業界も価値観が大きく変わるのかもしれません。
こうでなきゃだめだ、こうあるべきだ、こうするのがあたりまえだ、のような硬直した形式主義から本当の意味で脱するためには、新しい時代の価値観を携えた世代の力が必要です。
(参考記事: なかなか一筋縄ではいかない脱・形式主義。カギは20代講師に -)
しかし、さて、その世代交代までじっと耐えて待つのか -。
もちろん、NOです。ただ、その分、新しい価値観に基づいた授業の方が学習者のためになる、効果的に能力を伸ばせる、動機づけも高まる、ということを日々の工夫を通して絶えず証明していかなければならないと思います。
そしてそれをオープンに発信し、世界レベルで共有していく。それによって新しい時代に生きる学習者ともWin-Winになり、日本語教育業界の世代交代も加速できるかもしれないのです。