日本語教師、誰もが忙しい・・。でも質が違う。それを分けるものとは?

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どうも、ぬの★セブです。

今日は、日本語教師なら誰もが思う「忙しい」という状態にも《質の違いがある》、ということを書いてみたいと思います。

忙しい・・ある意味、ポジティブな響き(需要がたくさんあって充実している)でもありますし、ネガティブな響き(余裕がない)でもあります。多くの日本語教師の方とお話ししたり、Twitterのタイムラインなどから、誰もが何かしら「忙しい」という状態であることがうかがえます。(やること、たくさんありますから・・)

でも先日、ある日本語教師(日本国内勤務)の方々とお話ししていて、忙しいという状態の質を分けるものについて、はたと気が付きました。それは、

仕事に追われているのか、自分で仕事を追っているのか、という働き方の違いです。

 

仕事に追われるとは、自分に決定権がないこと

では、なぜこういう働き方の違いが生まれるのでしょう。言い換えれば、なぜ仕事に追われてしまうのでしょう。

実は答えは非常にシンプル。自分に決定権がないからです。自分で忙しさを調整できないからです。

例えば、典型的な日本語学校。複数の常勤講師、非常勤講師がいて、授業のスケジューリングをする教務主任がいます。講師は、その決められたスケジュールに従って自分に割り当てられた分の授業準備を進めていくことになります。

そのスケジュールは決してきれいに前後がつながっているとは限りません。初級後半⇒ N2 読解 ⇒ ビジネス日本語 ⇒ 超初級 ⇒ 中級作文・・・云々のように、テーマがあちこち飛びまくることも日常的にあり得ます。

そして、自分の担当コマの前後のコマを担当する講師の方々との引継ぎが発生します。

「自分の担当はここで、予定通り終わりました」「すみません、ここがまだ終わっていません」「すみません、時間が余って、この部分先食いして進んじゃいました・・」などなど。(もし生徒のために必要だったことなら、そもそも謝る必要はないとも思うのですが・・・)

何が言いたいかというと、結局、誰かに組まれた予定通りに、自分の担当分のコマ(ノルマ)をこなすことが目的化してしまうということです。もちろん、講師のマインドとしては生徒の成長を願っています。ただ、いや、だからこそ、工夫しようと思えば思うほど、時間を食いつぶし、自分の首を絞めてしまう、ということなんです。

まさにこれが、仕事に追われるという状態です。誰かが決めた「次の担当コマ」をやらなければならず、その準備もしなければいけない。「何かここで時間をかけてここをアップデートしたいという」自分のクリエイティブな意志さえも途中でブレーキをかけなければなりません。

そんなの、社会人だったらみんな同じなのでは?と思うかもしれませんが、会社員のほうがまだ自由度は高いのではないでしょうか。自分で人と会うアポを入れたり、セミナーやイベントなどで外出したりなど、ある程度は自己調整できたりするので、締め切りに追われることはあっても、全ての予定を他の誰かに100%決められるということはないと言っていいでしょう。

「ワーカー」= 忙しい、と感じる理由

日本語学校で、スケジュールを決める方々も、もちろん、(常勤であれば特に)あまり「アソビ(スケジュール上の空白)がない」状態にしようとしますから、ほぼ空白が埋まった状態で予定が提示されることでしょう。

ぼくもハノイの日本語学校で働いてるときは、似たような経験をしました。(そもそも講師の頭数的に余裕がある学校は存在しないとも思うのですが・・)教務主任の方が出してくるスケジュールは基本的にびっしりと授業のコマで満ちていました。最終的に講師同士の予定と合計コマ数に偏りがないかどうか調整したうえでのものなので、誰と見比べてもほぼ担当コマ数は同じでした。

あとは自分のスケジュールを見て、どんなクラスのどんな「課」を担当するのかを確認して、準備に入る、というわけです。

ハノイの学校では、ある程度のゆるやかな「担任」めいたものはありましたが、それでも他の講師の方々との引継ぎは発生しましたし、もちろん自分の独断で内容や予定そのものを調整することは不可能でした。

その決められた枠内でどんなにいい授業をしようと、どんなに生徒から評価されようと、働き方としては、「ワーカー」に変わりはありません。ディスパッチャーに組まれたスケジュールの指示通りに動くことを余儀なくされた「ワーカー」です。ハノイでは、ぼくもワーカーでした。

そして自分が思った以上に授業の予定が入っていれば「忙しい」と感じるでしょうし、また自分が調査・研究したいこと、教材などで工夫したいことがあってもそれを行うのに十分な時間がなかったとしたら「忙しい」と感じるでしょう。

つまり、仕事に追われて忙しいと感じるのです。繰り返しますが、その理由は自分に決定権がないからです。

自分で仕事を追っている忙しさ、を持ち続けたい

じゃ、もうひとつの「忙しい」はどうでしょうか。ぼくは、それを「自分で仕事を追っている働き方」と書きました。

やらなければいけないことが目の前にあることは同じ。でも、アプローチの仕方が全く違うのです。自分で仕事を追う=自分で時間を調整できる。自分のやり方でできる、自分のやりたいことを追及できる、つまり、自分で決められるということです。

これはとてつもなく大きなことです。同じ日本語教師でも、働き方としては「鏡に映った」真逆の様相だと思います。

つまり自分自身が教務主任でもあり、教師でもあるということです。

自分が理想とする授業をイメージしながらカリキュラムを自分で組み、日常の自分のスケジュールも自分で決める。日々の授業を通してリフレクションを行いながら、《連続性のある、意味のある、自分自身と生徒のための》授業プランを練って、また授業を行う。

そして、全体のカリキュラムもスケジュールも可変であり、学習者の進行度合いによっていくらでもフレキシブルに調整できる。ミクロにもマクロにも。最終的に帳尻を合わせるように可変プランニングを継続していくので、それはそれでプロジェクトマネジメントのようなスキルも上がっていきます。

さらに講師として貴重なのは、余白も調整できること。調査、研究、教材考案、修正、細かい工夫やそのための作業時間など、自分で今必要だと思うことを自分で時間の調整をすることで、余白を作り出すことができるのです。

必要だと思うこと、それは自分がやりたいことです。やりたいことをするのだから、そのために時間を投資していきます。でもその忙しさはとても充実していて「納得できる」ものです。つまり、これが、

自分で仕事を追っている忙しさ、です。

大きい学校で組織分業をしている環境では、ある程度の地位にならなければそれを実現するのは難しいかもしれません。でも、わたしたち日本語教師は「資格を持つ」専門職です。会社員が大企業を辞めて独立して起業したり、フリーランスになったりするように、専門職こそ多様な働き方ができるのではないでしょうか。

独立して小さい学校をつくる。フリーランスになって個人で契約しながら働く。オンラインで教える。あるいは、日本語学習アプリをつくる、でもいいかもしれません。

ぼくは今、セブ島の日本語学校で、契約ベース(2年単位)の専任講師ですが、フリーランスほどではないにしても、仕事においてかなりの部分、権限を委任されている状態ですので、まさに「自分で仕事を追っている忙しさ」を日々体感しています。

これが幸せなことかどうかは人それぞれかと思います。でも、少なくともぼく自身が感じる忙しさはポジティブなものです。

自分で決められるということで感じられる自由さ。これは生徒たちに常々促している自律学習の講師版ではないかとも感じています。

勉強をやらされるのではなく、(楽しいから)自分で決めて、すすんで勉強しているのだ、と生徒に思ってもらうための工夫を講師がするのなら、講師自身も「この授業をやらされる」のではなく、「(楽しいから)自分で決めて、すすんでこの授業をやっているのだ」という状態をつくれば、よりうまく授業が回転していくものと思われます。

その状態であれば、忙しさは楽しいことですし、次に働く場所や自分の働き方もこの観点だけは持ち続けていきたいと思っています。

じゃ、またーー。

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