どうも、ぬの★セブ です。日本での一週間の短い夏休みから帰ってきて、改めて自分の授業を見つめなおして気づいたところがあったので、今日はそのあたりの話をしたいと思います。
アクティブ・ラーニングや、昨今の様々な教育関係の方々のブログ・SNSなどでよく出てくるキーワード= 学習者視点。言葉ではよく聞き、分かってはいるつもりでも、実際の授業ではつい講師視点でものを見てしまっていることも多いのではないでしょうか。
よほど常に意識して教案レベルから変えていかないと、なかなか講師が授業で体現していくのが難しいことだと思います。
昨日、こんなツイートをしました。
一週間ぶりの授業でタスクをやってもらっているときに、思ったより結構時間がかかり、ふと空いている生徒側の席に座ってみたときに気が付いたことです。
ペース。もちろん生徒それぞれ自分の心地よいペースがある。自分(講師)にも心地よいペースがある。そこを《自分と波長の合う生徒のペースにとらわれて》授業をしていないだろうか、ということ。
ぼく自身、ハノイで日本語教師になりたての最初のころ、分刻みの教案を作って実行してしまい、結果、(ねじをきりきり巻くように)生徒をかなり煽ることになって大反省をした記憶があります。
それ以来、分刻み教案は完全に廃止し、プレイリスト型のゆるやかなメモに変えて、場の雰囲気や流れに応じて臨機応変にタスクを繰り出していくやり方を試行錯誤の上うみだしました。
それでもやはり業の深い人間。自分が《このタスクを提供したい》という業を、生徒たちの様子を見ながらも、つい自分と波長の合う/自分が作り出す空気感と流れにうまく乗ってくれる 生徒/に合わせて進めていなかっただろうか、と生徒の席に座ってみて、思い直したわけです。
そもそも「手応えのある生徒に合わせる」とか「どのレベルの生徒に合わせるか」とかいうこと自体がまだまだ講師視点なのかなと。自分が思っている以上にもう一歩生徒側に近づいて、いわばバーチャルな自分を授業(タスク)に参加させてみて限りなく客観視する努力が必要だと改めて感じました。
冷静なもうひとつの自分から状況を俯瞰すると、もっとうまくいく
YouTubeで好きな人たちのインタビューや対談を見るのが好きなのですが、その中でおもしろかったものがあります。イチローさんと北野武さんの対談で、一流として熱狂を作り出す中で、やっぱりちゃんと「冷静な自分が常に自分を客観視している」ということを2人ともおっしゃっています。
「2つの脳」 (13分20秒 付近より)
たけし「(ステージで笑いを取りながらも、頭の中では冷静な自分がいて、)自分の姿が客席からどう映っているかを同時に考えている。」
イチロー「それは、アメリカで野球をやっていて、つくづく思いましたね。それ(2つの脳)がないとやっていけない。」
たとえばサッカーなどでもよく「目の前のプレーだけじゃなく、もうひとつGPSのような視点で上空からピッチを俯瞰していないと、いいプレーができない」といいます。
ぼくは授業、特にこれからの授業ではこの《2つの脳を持ち、一方の脳で常に状況を俯瞰する》ということがとても重要だと思っています。それでなくとも講師は「授業を取り仕切る暗黙の権威」みたいなものがあるため、自分が教えるとか、自分が何かを提供するとかいう方向に流れがちです。
実際、ぼくが日々つけているリフレクションノートには反省項目として「わかっているだろうと盲信して、説明不十分なままタスクを実行してしまった」とか「タスクを(切れ目なしに)突っ込み過ぎてしまった」などの書き込みが今でも時々あります。
自分のリフレクションで学んだことは、授業では空白を埋めるように何かをするのではなく、むしろ余白があるぐらいのほうが良い、ということです。
余白がない授業というのは、講師(=日本語が話せる人)の独りよがりのペースで成り立っている恐れがあるのです。かえって余白を使って自分自身をクールダウンさせて時間の余裕を作り出したほうが、より深く生徒を観察したりインターアクションをしたりなど、いわば授業に野球のスイングでいう「ため」を作ることができます。
そのためには、もうひとつのバーチャルな自分を授業に参加させ、冷静に学習者の側から状況を俯瞰することが大切だと思うのです。できればタスク実行中に実際に学習者の席に座ってみること。そして話しかけてみること。どんなふうに取り組んでいるか観察すること・・・。こういう中からようやく本当の「学習者視点」が少しずつ入ってくるのではないかと思うわけです。
学習者の中に溶け込んで、伴走しながらコーチできる講師。この自分の理想のカタチに近づくために、『余白』と『俯瞰』を常に持ち続けていきたいと思います。じゃ、またーー。