どうも、ぬの★セブです。
Google Photoの整理をしていたら、オーストラリア時代に日本語チューターの生徒からもらったイラストを撮影したものが出てきました(↑上挿絵)。
このイラストを描いてくれたエリーさんは当時高校生で、アニメや漫画が大好きなインドア系女子。ぼくが「デスノートが好き」といったら、《キャラの中で誰が好き? L? Okay、じゃ暇なとき描くね。》と言って、『L』のイラストを描いて送ってくれたのです。
2015年の当時ぼくは、オーストラリア東海岸のクイーンズランド州にある《クイーンズランド大学(The University of Queensland: UQ》で(日本語教育とは直接には関係しない)「国際関係学」を学ぶ大学院生でした。
UQでの思い出もたくさんありますが、当時、アルバイトとして個人的にやっていた「日本語チューター」も最大週16人!を相手にするほど、たくさんの人たちと一緒に日本語の勉強をしました。
久しぶりにエリーさんのイラストを見て、わーっとあの日々を思い出し、“記憶が消えないうちに書き残しておこう・・・”ということで、今回は2015年にチュータリングで出会った生徒たちの話を綴りたいと思います。
(日本語チューターを始めたきっかけや、印象深いエピソードなどは、下記に書きましたので、ご参考まで。)
- 日本語プライベート・チューターの日々 in オーストラリア 2014-2015 <その1>
- 日本語プライベート・チューターの日々 in オーストラリア 2014-2015 <その2>
- 無資格だった自分が、プロの日本語教師を打ち負かした話 <きっかけ編>
- 無資格だった自分が、プロの日本語教師を打ち負かした話 <Please Come back! 編>
バラエティに富むチュートリアル: ★どうして日本語を勉強するの? - ブリズベン、2015年
さまざまな人がさまざまな理由から外国語-日本語を勉強しています。今から4年前の2015年、オーストラリアでとてもポピュラーな掲示板サイト『Gumtree』に《日本語ネイティブスピーカーです。チューターします。》と広告を出したところ、予想以上に問い合わせをもらい、実際、多くの人に1:1チュータリングを提供しました。
1時間$25の日本語チュータリングを希望するオーストラリア人とは、どんな人たちなのか・・・。思い出深い生徒たちについて、書いてみます。
(登場人物は全てニックネーム、または仮名です)
ローズさん(女性、20代、会社員)
《★ 何かやってないと退屈だから、日替わりでいろいろやってて・・、今、ゴスペルと韓国語を習ってる。来年、ママを連れて韓国へ旅行に行く予定なんだけど、ついでにw 日本にも寄ろうかなって。アニメ好きだし。だから、日本語も始めたい。隔週に1回ぐらいで、できますか?》
一定期間に髪の色を変える(オレンジ⇒ ラズベリーレッド ⇒ ブルー ⇒ ブラック・・)おもしろい人でした。さすが韓国語を勉強していただけあって、日本語の「勘」も優れていて、すぐに文法を理解して応用できるところはほんとに感心しました。
ウィリーさん(男性、20代、ITインストラクター)
《★ JETプログラムに応募して、日本で英語を教えようと思っている。まだ20代だし、いい経験だと思って。簡単な話を日本語でできるようになりたいから、週に2回ぐらいチューターをお願いしたい。》
父親の仕事の関係で子供時代をフィジーで過ごしたウィリーさん。とても明るくまじめな青年。JETプログラムの面接の前はかなり緊張していましたが、無事合格し、その後、日本の北陸地方へ派遣されていきました。かなり長い期間一緒に勉強した生徒さんです。
ポールさん(男性、30代、会社員)
《★ ブリズベンで日本の武道を習っています。1年に1~2回、日本人師範に習うために日本へ行きます。独りで勉強していても、なかなかうまく進めないので、チューターとして手伝ってほしい。》
大手テレコム企業エンジニアのポールさんは、小柄で、とても気さくな方。趣味はプログラミングで、オリジナルのゲームを作ること。自分のキャラから遠いことを新しい趣味でやりたい、ということで護身術⇒ 日本の武道にたどり着き、熱心にされているようでした。
ポールさんは、ブリズベンで日本人を見かけると、とにかく日本語で話しかけ、通じたこと・通じなかったこと、それぞれを楽しんでしまうという面白い方でもありました。
ぼくと会ったときは、ひらがな・カタカナはOK、漢字もいくつか読める、基本的な初級の例文がなんとか6~7割ぐらい理解できるという感じでした。ポールさんが「日本語の文法をちゃんと勉強したい」という意向で、彼が持っていた『みんなの日本語 初級I 第2版 翻訳・文法解説 英語版』を使って、週1~2回、チュータリングを続けました。⇒ その後、問題なくN5に合格。(このとき初めて、JLPT試験の存在を知りました・・・。)
また、ポールさんの娘さん(5歳)が、アニメ「魔女の宅急便」をとても気に入ったことをきっかけに、娘さんも日本語に興味を持ち始めたようで、こんなことも頼まれました。あるとき、ポールさんがどっさり日本の絵本を買い込んできて、「娘のためにこれらの本を日本語で朗読して録音したものがほしい。かかった時間分、チューター代として払うから。」とのこと。
そのとき、たまたまブリズベンで知り合った、沖縄出身の日本人留学生と図書館の会議室を予約して、2人でひとしきり(雰囲気出しながら)朗読してスマホで録音続けました。今までで最も楽しかったアルバイトのひとつでした。
アシュリーさん(女性、20代、大学生《同じ大学UQの生徒》)
《★ 同じ大学UQで、人類学と日本語をダブルメジャーで専攻しています。日本語のクラスがけっこう難しくなってきたので、助けてほしい。》
アシュリーさんは、父親がノルウェー人、母親がオーストラリア人。人類学も日本語も特に仕事と直結させるためにというよりは、とりあえず興味があるものを学びながら体験そのものを楽しんでいる感じでした。
彼女が最初に持ってきた日本語クラスの課題はなんと「宮部みゆきの小説『模倣犯』の数ページ(特に情景描写部分)を英語に翻訳する」というもの。
これは・・・かなり難しかった・・。ただ既習者-アシュリーさんの日本語のレベルはなかなかのものでした。文法だけでいったら既にN3-N4の中間レベルぐらいにはいたんじゃないでしょうか。
他の生徒との創作会話&スキットの校正とアドバイスなんかもお手伝いしました。「へえー、外国の大学の日本語の授業って、こんな課題を出すんだー」とこちらが学んだり。
アシュリーさんは、いつもオーストラリア名物のチョコレートビスケット「Tim Tam」を持ってきてくれて、それをつまみながらのチュータリングでした。真っ青で広い空と大学のカフェテリア、Tim Tam、日本語・・・。なつかしいなあ・・。大学を卒業したらノルウェーに移住したいと言っていましたが、今ごろどうしているのでしょうか。
マヌくん(男性、10代、高校生)
《★(父親より)高校での息子の日本語の成績を上げてほしい。今クラスで中間ぐらいにいるが、限りなく上位に入るようにしてほしい。》
インドからの移民のご家族。マヌくんはオーストラリア生まれの高校生。両親がとても教育熱心な方々で、家を訪ねるとマヌくんはいつも小学生の妹と一緒に何かを勉強していました。
マヌくんの学校はグラマースクールで、日本語がひとつのメインサブジェクトになっていました。もともとはご両親の「仕事としての専門分野のほかに、教養としての第二外国語を身につけてほしい」という意向から日本語を選んだそうなのですが、マヌくん本人も楽しんでいて、とても充実したチュータリングでした。
学校での日本語の勉強はとにかく何から何までデジタル化されていて、教科書、教材、テスト、宿題など全てラップトップから利用、ぼくとのチュータリングでもノートはラップトップのキーボードから打ち込み、漢字の書き方も手書き認識ソフトを使ってラップトップのタッチパネルから直接ペン入力していました。
チュータリングでは、日常の宿題やテストを見せてもらい、その解き方のヒントや類似の問題を出しながら理解を深めていく、という、まさに家庭教師的な感じで進めました。週に1回、半年ほど通い、クラスでトップにはなれなかったものの・・・、定期テストで上位グループに入るようになったということで、なんとかぎりぎり役目は果たせたかなと思います。
マヌくんの家がブリズベン郊外にあって、ぼくの住んでいた中心部からハイウェイ経由で30~40分の距離。ブリズベンも冬はそれなりに寒くて(⇒10℃以下になることも)、毎週土曜日の早朝、グローブ、マフラー、ダウンジャケットで防寒装備するものの、途中凍えながらバイク飛ばして通ったのが懐かしい思い出です。
ジーナさん(女性、20代、大学院生《同じ大学UQの生徒》)
《★ アメリカ人で、今UQ大学院の学生です。日本の文化が好きで、数年前まで日本に留学していました。せっかく覚えた日本語を忘れたくないので、会話中心のチュータリングをお願いしたい・・・。》
大学のカフェテリアで初めてジーナさんと会ったときのことはよく覚えています。Gumtreeのメールからお互いの携帯番号をやりとりして、待ち合わせしたのですが、会ってみたら、なんと同じ専門分野(国際関係学)の同じコースを受けている、顔見知りのクラスメートでした!
ジーナさん曰く「まさか、あなただとは思わなかった!でも、UQは、日本人、少ないもんね。ありえるよね。」
ジーナさんの日本語はかなり流暢でした。難しい言い回しや熟語を多用しない限り、手加減なしのふつうの会話ができました。チュータリングの最中は、会話の中で出てきた知らない表現をしきりにメモしていました。
日本に興味を持ったきっかけは、アメリカの高校のとき、授業で知った日本文化。「とにかく何でもかんでもまるっきり違う。アメリカとこんなに違うのに発展している日本って、どんな国なの?」- そして、やがて、日本へ留学したのでした。
話を聞くと、休みのたびにほぼ日本全国旅して、知らない人とたくさん日本語を話して覚えていったと。そして憧れの人が「緒方貞子さん」で、将来、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で働くのが夢で、今、オーストラリアで国際関係学を学んでいるとのことでした。
2人の生徒さんをつないでくれた日本人美容師 Aさん
買い物ついでに「髪切ろうかな」と、ふらりと立ち寄ったお店で働いていた美容師がAさん。当時、Aさんの髪はグリーン色で、ぼくの髪はオレンジ色w。お互い、よくいる「アジア系」ぐらいにしか思っていなくて、いろいろなことを英語で話し、名前をたずねたら、お互い日本風の名前。
「もしかして、・・・日本人ですか?」となり、滝のように日本語で話し始める。Aさんはワーホリでオーストラリアに来て以来、すっかり気に入ってしまい、興味はあったものの全く畑違いだった「美容師」になることを決意、オーストラリアで美容師の学校に通って免許を取り、ブリズベンで髪を切り続けているとのことでした。
ぼくが大学院卒業したら、日本語教師になろうと思っていること、今、個人のアルバイトでチューターをやっていることを話したら、Aさんから「わたしの彼氏(オーストラリア人)に、ぜひ日本語を教えてあげてください! わたしだと、うまく教えられなくて・・・なんでこの間教えたばかりなのに覚えてないの?とか、すぐけんかになっちゃうので・・・」と頼まれ、2つ返事で了解し、チュータリング開始。
彼氏のボブさんは、30代前半のIT企業のエンジニア。Aさんと付き合う前からアニメが好きで、特に、当時オーストラリアでも人気があった「One Punch Man」の大ファンでした。ボブさんは自身で「げんきⅠとⅡ」を持っていて、それを使って一緒に日本語の勉強をしました。
ただ、彼の日本語のモチベーションは、アニメというより、《★Aさんと一緒に日本に行って、Aさんの家族とコミュニケーションをとること。》
チュータリングは、こちらからQを投げかけていき、すぐに反応してもらう練習をたくさんしました。それから教科書「げんき」のイラストを使って、こんなとき何て言う?という感じでフレーズを覚えていきました。
その後、ぼくがベトナムへ移った後、2人が結婚したことをFacebookで知りました。(ほんとうにおめでとう!)
そして、Aさんは、もう一人、生徒を紹介してくれました。Aさんに髪を切ってもらっているお客さんで、大学生の「ブリジット」さん。20代、女性。
彼女も(前出のアシュリーさんと同様)父親がノルウェー人で、母親がオーストラリア人。Webマーケティングの独立系コンサルタントを目指しながら、大学で経営学を学んでいる方でした。日本語については、
《★ 世界観を広げるために、今、フランス語を勉強している。今度、友だちと東京に旅行しに行こうと思っているので、これを機にもう1言語-日本語を勉強してみたい。》というものでした。
ブリジットさんの学び方はいい意味でとてもアグレッシブで、知りたいと思ったことは、すぐさま質問する、習ったことはとにかくすぐに使ってみたい、という、まさに自分でチューターを使いこなす感じでした。
チュータリングの際、彼女からよく聞いたことばは「こう言いたいとき、日本語は XX で合ってますか?」「Nuno、ちょっと待って、ちょっと待って。自分で言ってみたい。答え言わないで!」というようなことでした。ほんとうに物おじしない、パワフルな学習者でした。
ブリジットさんは、それから何度も日本へ遊びに行っては(東京に友だちができたとのことで)、「知りたいこと、言いたいこと」をたくさん持って帰ってきて、日本語の勉強を続けてくれました。
ぼくがその後、ブリズベンからメルボルンに移り、そしてベトナムのハノイに移り、さらに現在のフィリピン、セブに移ってからもずっとSkypeでチュータリングを続けてくれている、貴重な生徒さんです。
おわりに - 追想メモ
昔のメールをたぐり、一人一人思い出しながら、チュータリングしていたときの情景やことばを追想する作業は、とても楽しい時間でした。そして改めて振り返ってみると、これらのことは全て、《養成講座を受ける前のこと》だったんだよなあ・・・と。
今から見ればもちろん、赤面するぐらい、稚拙でつたないコンテンツだったと思いますが、やり方(コンテクスト)としては、ビジネスマン時代に何度も経験したプロセス - 《顧客の課題とニーズをきちんと把握し、考えられ得るベストな解決策を組み立てて、実際それを実行していく》というコンサルティングそのものだったと思います。
また、一人一人カスタマイズして語学学習を支援する、ということを初期のころに数多く経験したことは、今、クラスルーム授業を行っている立場からしても、視点のもち方として、大きな財産になっていると思います。
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そして、今まで書いた生徒さんたちは、ぼくが出会った中のほんの一部です。他にも、父親や母親が日本人のハーフの方だったり、配偶者や付き合っている人が日本人だったりという、ルーツやつながりに伴う動機の日本語学習者ともたくさん一緒に勉強しました。
仕事も、投資家、看護師、美容師、シェフ、公務員、幼稚園の先生から、形態としても、親子で勉強したり、友だち同士で勉強したりする方たちもいました。
全員が全員、日本語の勉強をずっと続けるわけではないと思います。でも、少なくとも、彼ら、彼女たちが日本語を勉強していた、あのときに偶然にも関わり合えた貴重な経験は、いつまでも忘れないでいたいと、改めて思います。
もし次に会ったとき、みんながまだ日本語を勉強していてさらに上達していたら・・・想像するだけでとてつもなくわくわくしますし、そのときには、ぼくも数段レベルアップした、プロのチュータリングを提供しようと、日々の精進を誓うのでした。
じゃ、またーー。