どうも、ぬの★セブです。
全然計画通りに行わない(ならない・・)授業でも、ぐんぐん伸びていってくれる頼もしい生徒たちと一緒に学ぶ日々。少し前に、こんなツイートをしました。
ぼくが担当するコースは、ほとんどがゼロ初級から始める4か月コースか6か月コースで、それぞれのゴールが
- N5-N4レベルの能力/コミュニケーションスキル
- N4+レベルの能力/コミュニケーションスキル
となっています。ぼくたち講師は、使う教材(テキスト含む)や進め方が校長から完全に任されていて、それぞれが考えるカリキュラムで日々授業をしています。
学校が設定しているゴールに到達するために、講師たちは日々考え工夫し、学校には月に2~3回のレポート(生徒ごとの評価)を提出して伸び具合を共有しながら、ゴールできるよう調整していきます。
そのやり方は、みなかっちりとコース・スケジュールをつくって、日々ゴリゴリ準備して授業に臨む、というよりは授業の結果をもって次の授業を考えるという感じの「リフレクション重視型」。
直前の授業さえ、用意するのはごく粗めのものだけで、あとは授業をやりながら状況に合わせてその場で高速に準備していく、というスタイルができあがってしまいました。
当初立てた全体カリキュラムについても《内容的に》大幅にずれて、途中で完全に作り直すなんていうことも(ぼくは)しばしばです。
こうしてみると「PDCA」からはほど遠いんですが、それでも生徒と一緒に授業を組み立てているという手ごたえがあり、生徒たちも楽しそうに勉強し、結果、それなりに伸びていってくれるので、「むしろ、このやり方の方がいいのでは・・?」「果たして、計画(教案)通りに授業をすることに意味があるのだろうか?」と思うようになり・・・。
そして日々の授業は「あ、やっぱりPDCAじゃないな・・」ということが確信に変わってきたので、今日はそのことを書いてみたいと思います。
きっかけは、授業見学に入っているフィリピン人講師とのやりとり
去年に引き続き、今月中旬からまる2週間、同じフィリピン人の先生が再度ぼくの授業見学とアシスタント・サポートに入っています。(参考記事:「詰め込み」よりも『OJT』。リアルな授業からエッセンスを学ぶ効果。)
ぼくの授業はほぼタスク中心なので、《何か生徒たちがワークショップ的に何かやっている》という時間がほとんどです。そしてその時間を利用して、授業見学しているフィリピン人の先生とも授業のすすめ方について話したりします。
そこでよく聞かれるのが「ぬの先生、そんなにガンガンその場でやることを変更して、よくできますね・・・。大変じゃないですか??」ということです。
確かに。
でも、授業中に《予定していた内容を、とにかく終わらせよう》とか《今これをやっていたら、これができなくなる》など講師が授業をコントロールしようとし始めると、結局は講師主導の授業になってしまいます。
外国語として学べることは山ほどある中で、授業の中で生徒自身が腑に落ちる・落ちないこと、もままあり、その場・その時間帯に生徒自身の好奇心に《自然着火する》トピックやテーマなどもあり・・・。
その受け手側の学びの流れを無視して、講師がそれを断ち切ってしまうことがいたたまれないし、もったいないとも思うのです。文字通り、「カリキュラムを終わらせるためだけの、乾いた授業」になってしまいます。
先のツイートでも書いた通り、計画からすれば「道草」。かっこよく言えば、「ルート変更」。
ロングドライブで目的地までの旅を楽しむのであれば、当初の計画やカーナビのルート案内を無視して、目に入ったきれいな景色のところで長時間停まったり、現地でそのときにもっと楽しみたいこと・行きたいところに寄り道してみたりすることもよくあると思います。
そして、そのほうが楽しかったりもします。リアルな旅の醍醐味を味わうことができます。
だったら、日本語学習においても同じように、学びの醍醐味を味わってほしいなと思っているわけです。
その場に開いた生徒の好奇心を大事にして、喜んで計画を変更して、うまく学びにつなげる。カーナビから発せられる『ルート変更しました』の繰り返し。でも講師自身がナビになって、バックグラウンドで最終目的地まで導いていければいいのではないかと、生徒の輝く顔を見ていると、そう思うのです。
授業は、PDCAとOODAの組み合わせ
これをもうちょっとまともなコンセプトっぽく書くと、下の図のようになるかもしれません。
コース全体のプランがPDCAベースで、日々の実授業がOODAベース。授業ではコマごとに高速にOODAをまわして、その振り返りを次の授業(コマ)へつなげていく。または次のコマでなくても、できるだけ早く対応する。
細かい単位でのレッスンプランが生徒の反応やパフォーマンスによって頻繁に変わることから、ぼくはこれを《アクティブ・カリキュラム》と勝手に呼んでいます。
【追記】OODAについて、ちょうど東洋経済オンラインからものすごくタイムリー!な記事があがりましたので、リンクを貼っておきます。(Thanks to: あひるせんせー @ahiru5963)⇒ PDCAがAI時代では「オワコン」な根本理由 -いま米国の優良企業が重視する「OODA」とは(2019年2月25日)
授業中は、ウォーミングアップや帯活動の後、生徒たちにいくつかタスクをやってもらいます。そこからOODAの最初のObserve: 見る・観察する、のプロセスが始まります。
その出来具合やスピード、反応、興味の濃度などを【Orient:状況判断】して、問題なければ次へ進み、何か問題あれば、軽く問いかけたりヒントを出したりしながら対話して、Things to doに加えたり、すぐその場でホワイトボード・トークや即興エクササイズしたりします【Decide:意思決定 ⇒ Act:実行】 。これを授業内で高速で行うわけです。(※ぼくの場合は、同時にこまめにGoogle Keepにささっとメモを書き込み、ログに残します。授業をやりながら、同時に振り返りをしているような感じです)。
実際、多くの先生が同じようなことをされているかもしれません。ただ、ぼくの場合は、ほぼ全授業で日常的なこととしてこれを《受け容れています》。
会社員時代、ふつうに用語として使っていたPDCAは、やっぱり仕事の工程がある程度決まっていたからこそ有効だったんじゃないかなと思います。今の日本語教師の仕事は、母語話者でない多様な人たちが第二外国語を学んでいくという不確定要素てんこもりの中で、さらに講師も人として絡んでいくということなので、工程どおり、予定通り、教案通り・・・という《プランありき》で進める授業マネジメントだけでは、どうしてもしっくりきません。
裏を返せば、
- 《授業は計画変更があって当然!》⇒ 道草/ルート変更を喜んで受け入れ、楽しむ!
- そしてコース・プログラムは、そのうえでゴールまで導いていく大ゲームとして捉えてしまう!
というほうが、常に柔軟でいられるし、生徒も講師もモチベーションをキープできるし、双方で好奇心重視の学びを楽しめると思うのです。
おわりに
先週読んだ、全然角度が違うこのnoteの記事も、なんかとてもすっと理解できます。
“計画は立てない。行きながらインスタ検索。女子大生が語る「当日に予定を決める理由」その瞬間の気持ちを一致させて楽しさを最大化している話。”
アプリマーケティング研究所 (2019年2月22日)
例えば、水曜日の授業でやろうと思っていたことがあったとして、いざ水曜日がきて実際生徒と向き合って授業をすすめていくと「あ、今・・これじゃないな・・。」というとき。
または、生徒から「このタスクの続きをやりたい」とか「もっと漢字の時間を増やしてほしい」とかリアルにリクエストを受けるとき、とか。
ムードや空気感。生徒たちの考えや気持ちの動き・切り替え。
もちろん生徒ごとにそれぞれ違うこともあります。でもそれらを聞くことで対話が生まれますし、何より彼らの頭の中の動きや感じていること(ムード)を講師が知ろうとすることは決してマイナスにはならないと思います。
そして、主に生徒のパフォーマンスを含めてそれらを察知して受け容れて、すぐさま調整できるという、なかば直観をも使ったOODAスキル。
少なくとも、その場での計画変更に対して柔軟で、そして生徒の好奇心に基づいた道草・ルート変更、即興活動をも楽しい学びにしてしまうという姿勢と工夫は、いつも持ち続けていきたいなあと思います。とにかく《楽しみながら、日本語ができるように》なってほしいのです。
じゃ、またーー。