慣例にしばられず、学習者をリスペクトできる《自分の言葉》を使っていきたい

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どうも、ぬの★セブです。

ある程度の時間その人と話していると、あるいはSNSなどでその人の言葉をずっと見ていると、「言葉」と「思考」って本当につながってるなあ、と感じることがよくあります。

使う言葉や話し方は、いろいろな意味でその人らしく、フレーバーとしては、ほとんどブレることがないと感じます。もちろん自分も含めて・・・考えていることが「ことば」になり、その「ことば」が実際に行動として表れる。

まさに!!の、有名なマザー・テレサの名言を思い出します。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。- マザー・テレサ

表に出る行動やふるまいなどの源泉が、「思考」にあるとすると、思考を深めたり、磨いたり、浄化したりすることなど・・・が極めて大事になってくるのですが、思考と行動の《真ん中にある》-それらをつなぐ『言葉』も、すこぶる大事だと思っています。

従来から日本語教育業界で慣例的に使われている「ことば」の中で、ぼくなりに「これはちょっと違和感がある」と感じるものがいくつかあります。そして(★あくまでも個人的に、ですが)自分では使っていない言葉が・・・。

今日はこのことについて、書いてみたいと思います。

「教える」を使わない

少し前に書いた記事で、「違和感のあることば」として下記のようなものを挙げました。

  • 日本語を「教える」(一方向で何かを教えることはしていませんし、)
  • 教壇に立つ(キャンプファイヤー式で同目線の机配置なので、物理的にも教壇には立っていませんし、)
  • 生徒に~させる(生徒が主役なので、~してもらう、のほうが近いですし、)

(以下省略)

(参考記事:「こうあるべきだ」から、いつも自由でいられる日本語教師の方々を応援したい

一番最初に挙げた言葉、そして、これは実際に、ぼくが約1年前から極力使わないようにしている言葉です。

それはズバリ、「日本語を教える」です。

他にも「海外で教える」「フィリピンで教える」「日本語学校で教える」など、ごく普通に使われている言葉かと思います。というか、あらゆる学校で、そもそも《先生》と《教える》は疑うこともなくセットになっていると思います。

でも、数年前に会社員から日本語教師に転身したぼくにとっては、どうもこの「教える」という言葉が居心地悪く感じてしまうのです。

何をいまさら?? そうですね・・・もしかしたら、考え過ぎなのかもしれません。ただ、自ら「教える」「教えている」といざ口に出してみると、どうしても何か一方的で、教師(上流)から生徒(下流)へ向かう矢印⇒が消えることがありません。

語学はたとえどんないい先生に巡り合ったとしても、結局は使う人が《主体》となって取り組まないかぎり、上達しないと思います。ときに教師への依存度が高くなりがちな「初級」についても、意識の上での《主体性》は常に持ってもらうように促すことが大切だと思います。

泳ぐのは生徒、テニスをするのは生徒、日本語を使うのも生徒。本当に語学はスポーツと似ているなあ、と思っていまして、プレイヤー本人のポテンシャルを最大限に引き出すという意味では、テニスのコーチ、サッカーのコーチ同様、『語学コーチ』というほうが合っているのかもしれません。

「生徒に~せる、させる」を使わない

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小中学校教師向けの書籍などでよく使われている表現で、日本語教師向けのものでもよく見かけます。⇒ 生徒に~せる、させる。

これも、《権限・権力を持っているほうが、もう一方を思い通りに動かす》みたいな強めの語感があって、かなり居心地悪く感じます。特にほとんどが20代の大人の学習者が中心という、今ぼくが働いている学校ではなおさら。

これも、前項の「教える」と同様、授業は“知識を持っている”教師が主体で、教師が学習をコントロールするものという《先生=オーソリティ》的な考え方の源流があるのでしょうか。

日本語教師向けの書籍や記事でも、生徒に言わせる、読ませる、書かせる、作らせる、立たせる、宿題をやらせる、ペアを組ませる・・・など、教師が思い通りに(あるいは強いて)生徒を動かそうという「思考」がこれらの「言葉」を通じて実際の「行動」として表れているように見えてしまいます。

さまざまな情報や学習コンテンツが山のようにネット上にあって、根気強く続ければ独学でも相当なレベルの語学を身につけられる時代。留学生やグローバル人材も今や多くの経済先進国で取り合いになっている中、日本を選び、学校に通って日本語を学ぼうとする方たちは、かけがえのない存在です。

そして、仕事とは関係なく、日本が好き、日本の文化が好き、日本のアニメが好き、日本語そのものが好き、で日本語を勉強している方には、本当にいつもこちらのほうが元気をもらい、学ぶことも多く、ちゃんと温かく迎えて、できる限りのサポートをしたいなあと思います。

ビジネスにおいて、「お客様に買わせる」とは決して言いません。やっぱり「お客様に買ってもらう/お買い上げいただく」です。《買ってもらう》ことでお互いベネフィットがあるわけです。

それと同じで、ぼくは「生徒に~せる、させる」と言うのがとても苦手で、ずっと「~てもらう」で通しています。

「入れる」「入っている」「入らない」と言わない

420時間養成講座を受けていた時に、日本語学校で聞いてかなり違和感があったのが、この業界用語です。日本語教師の方同士の引継ぎかなんかの会話のときに出てきました。

「あ、○○(文型)は、もう入っています。第〇課のここの語彙がまだ入ってないので、次の時間に入れていただけると助かります。あと、このクラスは○○(文型)がなかなか入らなくてちょっと苦労してますが、軽く復習していただければ・・・云々」

最初、正直?チンプンカンプンでしたが・・・、多くの先生が日常的に使っていたので何のことを言ってるか分かるようになりました。

実際、養成講座の卒業試験(模擬授業)のときも、こう言われたりしました。

「じゃ、ぬのさん。第〇課までの文型と語彙はすでに入っているという前提で、始めてください!」みたいな。

この、学習者を対象にした「入れる」とか「入っている」とかいう表現がどうも馴染めなくて、今までほとんど使ったことがないのですが、たまたま最近読んだ本の中にこう書いてあって、腑に落ちました。

「1⃣ このクラスはできが悪くて、いくら文法を入れても全然入らない。」

たとえば、「議論は戦いだ」という比喩があります。この比喩が認識を規定していることは、「議論に勝つ。」「相手の議論の弱点を攻撃する。」といった表現が日常的に使われていることからもわかります。

この観点から見ると、1⃣の表現の背景には、学習者を「容器」と見て、そこに知識を流し込む(入れる)ことが教育だという教師の潜在的な認識/価値観があると考えることができます。

「一歩進んだ 日本語文法の教え方 1」庵 功雄 P.148

容器・・こわい言葉ですよね。日本語について空っぽな容器に、日本語の知識を入れるという考え方だとしたら。・・・もちろん決して容器ではありません。

そもそも学習者には語りたいことがあり、それを実現するために文型・語彙を学ぶのです。

「プロフィシェンシーを育てる3  談話とプロフィシェンシー  」 嶋田和子  P.180

もし自分が何か外国語を学んでいる立場だとして、その言語の先生たちがぼくたち学習者に対して、「入れる、入っている、入らない」と話していたら、やっぱり心地よくはないと思うんです。

さいごに

日本語教師にはそれぞれ多様な考え方がありますから、人によって普段使いとしての馴染む言葉、馴染まない言葉があるかと思います。

ぼくが働いているのはセブ島の小さな日本語学校ですが、毎日(母語からかなり遠い)日本語を熱心に勉強するフィリピンの人たちと教室を共にしていると、やっぱり彼らを最大限リスペクトしたいという気持ちが先に来ます。そして実際そういう言葉を使っていきたいのです。

教室の中でも、ぼくは「教壇に立ってあれこれ指示する先生」ではなく、彼らにとって外国人の友人であり、教室の中で日本語が一番得意なコーチング兄貴という存在です。

たとえ、業界で長らく使われてきた言葉であっても、自分の思考や行動とフィットしないと感じたら、よりよい新しい言葉を見つけて置き換えてみて、また日々学習者たちをサポートしていきたいと思っています。言葉には思考と力が宿ります!

じゃ、またーー。

teresa

4件のコメント

  1. はじめまして、オーストラリアの養成講座教師養成講座を受講しているKazuakiと申します。ぬのさんが書いている通り、特に”入る”がよく使われていて、確かにいい言葉ではないと思っていました。「分かりましたか?」についてもです。

    まだ講座自体スタートしたばかりでよく分からないことも多いですが教師と生徒ではなく出来るだけ近しい関係を築くことができたらと考えています。

    いいね: 1人

    • Kazさん、コメントありがとうございます! ほんとうにKazさんのおっしゃっるとおりで、関係が遠くなってしまうと、学習者が教師に遠慮したり対話にストレスを感じたりと、動機づけが下がって受け身になり、習得効率が下がるんですよね。

      また養成講座の中でKazさんが違和感を感じることも少なからずあるかと思いますが、その違和感はぜひ大切にしてほしいなあと思います。「養成講座」とはいえ、(ほとんどが伝統的な/典型的な)日本語教授法の型のひとつでしかないので、《日々進化する》実際の授業とでは異なることも多々あります。

      ぼくも2016年春にメルボルンで養成講座を受けました。これからもがんばってください。応援しています!

      いいね: 1人

      • こんにちは。2ヶ月半ほど前にコメントしました、Kazです。色々ありましたが、養成講座を終えることができました。その中でも、学習者の皆さんと(例えば教育実習で)良い関係を築くことが出来たのはここを度々みていたからだと思います。ありがとうございます!新しいことにチャレンジできた420時間でした!まだまだたくさん吸収しながらやっていきます!

        ぬのさんのいらっしゃる学校の授業も見させていただきたいなあと思ったり、自分のアイデアを共有したいと考えたりと、とりあえず頭の中は充実しています。

        重ね重ねではありますが、いくつかの記事には大変お世話になりました!

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      • Kazさん、養成講座、修了おめでとうございます。また、いつもブログ読んでいただき、ありがとうございます。

        学習者のみなさんも、Kazさんとのいい関係の中でたくさん日本語を学んでいけたのだと思います。

        そしてそれは同様にKazさんの日本語教師としての財産にもなっているはずです。誰にも真似できない、Kazさんの力です。

        これからのご活躍を心よりお祈りしております!

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